公権力は痩我慢を―射倖心の法律学・その二


年末になると、必ず話題になるのが、中央競馬を締めくくる「有馬記念」のはなしです。先日、新聞を読んでいたら興味深い記事を見つけました。その記事によると、いま公営ギャンブルは、競馬、競艇、競輪そしてオートレースの四種目があるのですが、これらいずれの競技も苦しい経営を強いられているそうです。バブル崩壊後しばらくブームが続き、成長していた中央競馬も一九九七年から減り始め、それ以外の競技は九一年をピークに収益が減少。地方において赤字に転落したところもあると聞いています。戦後の復興期から自治体財政を支えてきた公営ギャンブルが、いまや一転「お荷物」以外のナニモノでもなくなってしまいました。

理由は、いくつか考えられそうです。@不況の長期化、Aファン層の高齢化そしてBレジャーの多様化等など…。でも、本当にこれらが原因なのでしょうか。不況のため、庶民の収入が減少すれば、ギャンブルへの支出が減るというのでしょうか。賭け事とは、収入云々に左右されず、ついついやってしまうもの。また、仮にファンがお年寄りに偏っていたとしても、いまは少子高齢化。時間とお金を持っているのは、むしろ高齢者であり、ファンの数は、質・量ともにますます拡大していくはずです。さらに、余暇の多様化をいい出せば、そんなこといまに始まったことではありません。わたしが思うに、何が一番の問題かといえば、ブームに乗って安易に経営規模を拡大してきた国や自治体のやり方だと思うのです。

国や自治体が、このような状況下において、まず行ったことはギャンブルの多様化です。一つは、いまや有名となった「サッカーくじ」。いま一つは「キャリー・オーバー」(当選金を次回に持ち越すこと)が可能な宝くじの発売です。つぎに行ったのは、客数回復のための場外券販売。財政上の必要から、場外券売り場の開設の誘致に乗り出す自治体も少なくないそうです(場外券売場を設置した自治体には別途交付金が付く)。このように、公営ギャンブルという安易な事業から引くに引けず、なりふり構わない国や自治体の対応を見てとることが出来ます。

かつて、わたしはこのコラムで「宝くじ」を取り上げたことがありました(「夢は買うモノ!?―射倖心の法律学・その一」)。宝くじは、戦争で疲弊した経済を立て直すために「当分の間」、人間の精神的・心理的に弱い部分―射幸心―をあおり、自治体が一儲けしようとしたことに始まります。しかし、その頃の自治体は、このような手段で財政資金を獲得しようとすることに、後ろめたさを感じていました。戦後すぐに制定された法律やこれに関連する審議会の報告書の中には、そのことが色濃く出ています。この頃の国や自治体の姿勢には、いまだ品位というものがありました。

福沢諭吉は、その著書『痩我慢ノ説』の中で、国や人物が尊敬され信頼されるのは、独立自尊の気概を持つことに加え、それを守るためには痩我慢というのも必要であると述べています。痩我慢―品位と読み替えてもよいと思います―を無くした国・自治体はいつまでたっても、国民や他国からの信頼を得ることができないとわたしは思うのです。


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