市場(しじょう)の声は天の声!?<その二>―市場が主語になることの違和感


ところで、市場価格は、市場参加者の投票による多数決の結果と見ることができ、政府の政策が市場で評価されるのは基本的に望ましいという意見もあります。先月号で指摘したパソコン市場のように、わたしたちは、優れた商品を選択し、それらを購入することによって、メーカーが供給する商品に対し知らず知らずの内に投票をしているという見方もできます。そして、わたしたちに支持されている商品のみがその市場において生き残ることができる。「消費者主権」とはこういうことを指していいます。したがって、わたしはこういった意見を全面的には否定しません。国政選挙のときのように国民が何等かのかたちで決定に参画することができる。民主的な過程を経て決定されること自体望ましいことだと思います。しかし、国政選挙における投票と市場参加者による投票との違いに注意しなければなりません。前者においては、棄権の可能性や選挙区ごとの人口差に由来する「一票の格差」という問題があるものの、投票権そのものは国民一人一人に平等に与えられています。しかし、後者の場合は、支出可能な金額に応じて投票権が付与されていると見ることができるのです。つまり、経済的な力によって市場に与えるインパクトが違うのです。

また、為替レートや株価などの資産価格については、もっと複雑な要因を考慮しなければなりません。投資家として有名なジョージ・ソロス氏は、為替相場や株式市場における価格の形成においては、需要と供給が簡単に一致するわけではなく、市場の期待やさまざまなできごとが影響し合って相当期間、乖離しつづけることがあると述べています。このように市場の期待−「将来の見通し」と言い換えてもいいでしょう−が大きな影響を及ぼす市場においては、殊に短期的な見通しと長期的な見通しとにズレがある場合、為替レートや株価の形成はどういった人々が市場を構成しているかによって変わってきます。たとえば、年金資金のように長期的な資金の投資家が多くなると長期的な見通しの比重が強く出てくることになるでしょう。また、わが国の株式市場は法人株主が多く、株式の持ち合いが多いといわれています。このように株式の流動性が低い市場においては一部の投機色を帯びた人々の影響が強く出てきます。

漠然と「市場が…」といったとしても、それが一体どういった市場のことを指し、その市場がどういった人々によって構成されているか、少なくとも論者はきちんと認識している必要があります。最近のマス・コミ等の論調を見ると、そうした前提条件を欠きつつ、政府や政策の是非について、「市場」の評価・判断と「社会的な意見」とがあたかもイコールにあるかのような口ぶりです。確かに最近の「市場主義的空気」の中において「市場」は一見逆らいようもないくらいの力強さを持っています。それだけに、わたしたちは「市場」にあらゆるものの評価や判断を安易に押し付けているレトリックの真意を見破らなければならないと思うのです。


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