「市場(しじょう)が○○といった」。このフレーズ、最近の新聞やテレビの報道でよく見かけませんか。たとえば、このフレーズは「小渕内閣に対して市場がノーといった」というふうに使われます。先日の新聞でもバブル崩壊後最安値を更新したわが国の株式相場について宮沢大蔵大臣は次のようにコメントしていました。「早期健全化スキームの自民党原案が金融機関に対して厳しいとの印象を市場が持った。それが反映されている」と。マス・コミだけではなく一国の蔵相までもが普通に使っているこのフレーズ。「市場」が政府を承認したり、一国の政策を評価したりしているわけです。「市場」ってそんなに偉いんでしょうか。わたしは、この「市場が…」というフレーズを見聞きするたびになんとなく違和感を感じてしまうのです。
この違和感の正体は一体何なのでしょう。まず、「市場が…」というように主語が無生物であるということが考えられるかもしれません。しかし、このような表現は、外国語を習うとしばしば出てくるように、日本語としての好みの問題を別にすれば、それ自体誤りとはいえません。つまり、「日本語」としての違和感ではないようです。
どうもいろいろ考えてみると、この違和感は(1)「市場」という多義的ではっきりしないモノが何らかの評価や判断をする主体になっていること、また(2)ここでいうところの「市場」の意味が特定されていたとしても、その評価・判断がなぜに−マス・コミあるいは政治家が取り上げるほどまでに−一見した際のもっともらしさ、妥当性・正当性を有することとなるのかという二つの点に由来するものではないかと思うのです。
では、「市場」って一体何なんでしょうか。わたしたちがすぐ思いつくのは、毎朝のニュースで流れてくる「一ドル=○○円」といった為替レートをはじき出す外国為替市場かもしれません。また、新聞などで企業ごとの株価や日々の値動きの前提となる株式市場を頭に浮かべる人もいるでしょう。またある人は、パソコンという商品であれば、たくさんのメーカーが消費者の選択を勝ち得ようと、値段や品質で競い合っている場をイメージして「パソコン市場」と呼ぶかもしれません。いずれにしても、中学校の公民の教科書が教えるように、ある場所を舞台にして取引が広範に行われ、需要と供給が一致したところに市場価格が形成される、そのような場を一般的に指すことについては見解の一致があるようです。たとえば、外国為替市場を考えてみましょう。外国から物品を輸入をするに当たり、外貨を獲得するため円を売ってドルを買うという行動に出たとします。こうした力が強ければ、円安・ドル高に導かれていくことになるでしょう(つづく)。