堺屋太一氏が語るところによれば、二一世紀はデフレ状況が恒常的に続くのだそうです。そのまえぶれでもないのでしょうが、いま、わが国はデフレ不況下にあるといわれています。でも、密かなる「インフレ」が進んでいることを皆さんはお気づきでしょうか。「責任」のインフレです。戦後の「戦争責任」から始まり、汚職事件で政治家や官僚が必ず口にする「政治責任」や「道義的責任」、近年注目を集めた「製造物責任」、一連の金融不祥事における「(紹介)融資責任」、規制緩和の関係で人口に膾炙している「自己責任」等々、あげていったらキリがありません。あらゆる個人、集団、行為、地位に対して責任が追及されています。「責任者、出て来い!」と。これは、国民がわが国の行方に行き詰まりを感じ、いままで是とされていた慣行や制度に疑問が投げかけられるようになったことの象徴なのかもしれません。
でも、ちょっと待ってください。これらの「―責任」、すこし整理して考える必要があるようです。というのも、責任の性質によっては、責任のとり方も異なってくるからです。
ヴァイツゼッカー元独大統領の「荒野の四十年」という有名な演説に次のような一節があります。「民族全体について責任があるとかないとかいうことはありません。…今日の人口のほとんど大部分は当時子供であったか、まだ生まれてもいなかったのであり、彼らは、自ら全く行っていないことに対し責任を認めることはできないのです。…(しかし)我々は皆、責任があろうとなかろうと、老若に拘わらず、過去を引き受けねばなりません。我々は皆、過去のもたらす結果に関わっており、それに対して責任を負っているのです」。演説には二つの意味の責任が登場しています。分かりますか。二つは、集団的責任と個人的責任と括ることができるかもしれません。戦後世代の私たちは、どのような責任をとり得るのでしょうか?演説は、一定の政治的行為(戦争)に対し、国民としての地位から生ずる責任を負うべきであるとしています。確かに、ドイツでは「補償」という形で責任を取ってきました。
「自己責任」の原則は「近代法の基礎」といわれるように、市場経済社会において市民各々に対して要請されているものです。提供されるモノを自らの意思で選択し、万が一これらによって被害を受けた場合には、自ら主体的に訴訟を提起し損害の回復をする(べきである/ことが望ましい)。個人の責任が問われるのは、自らが予め合意したこと、自らの意思で主体的になしたことに限定されます。汚職等で政治家がいう「道義的責任」もこの類です。ただ、こういった責任において、「責任をとって」辞職するのは稀です。
しかし、刑法上の責任や「製造物責任」は、ちょっと違っています。これらは、「何かをすること/しないこと」を法律上予め要求されています。したがって、これに反すると、場合によっては制裁(例えば、刑罰・損害賠償)を受けることとなります。これには責任が前提ないしは基礎として存在しています。
責任のとり方には、先に触れた補償だけでなく、非難を受け入れる、謝罪する、反省するなどさまざまな方法があります。これらはいずれも、事実上のものにすぎません。わたしたちは、日常、「責任」とか「義務」とかいう言葉を何気なく使っています。でも、ここで見たように、「責任」にはさまざまなものがあり、「責任をとり方」にも、いろいろあります。法律で通常議論になるのは、すぐ上の例にもあるように、かなり限定されたものだといえるのです。