天気のいいお休みの日。ふらっとお寺の境内の「蚤の市」に行ったり、ちょっと足を伸ばして青山界隈の骨董品屋や神田の古本屋などを散策することがあります。とくに何かを買うというわけではなく、「出会い」を求めて懇意にしているお店を渡り歩いているだけなのです。「見てるだけ」ですから、無料でちょっとした美術展を楽しむことができるわけです。また、それぞれの品に値段がついていることも見逃せません。だって、お金を出す出さないは別にして、ちょっとがんばれば手に届きそうな感じがしませんか。夢をちょっとだけ見ることもできるのです。
いま「値段」の話が出ましたけれども、骨董品を含め美術品の価格がどう形成されるかは、たいへん興味深い話ですね。某局の人気番組「○○鑑定団」では、自慢のお宝をめぐる「値段」について一喜一憂しているわけですから。この問題についてもいずれこのコラムで改めて考えていくことにしましょう。
今回は「値段」のほかに古美術品や骨董品を見る際のもう一つの関心事、「真贋」−というより本モノ(ないしは贋モノ)であると少なくとも当事者のいずれかが思い込んで売ったり買ったりすること−の法的問題について考えてみることにしましょう。
あなたは、とある骨董品屋さんで運命的な出会いをします。以前、骨董の本で見た「○○茶碗」。値段は一五万円。本モノだったらもっと高い値段がつくはず。シメシメ・・・。「このお茶碗を売ってくれませんか!」。もう夢中で本物かどうかも確かめず購入してしまいました。しかし、家へ帰り本を確かめてびっくり。「○○文庫蔵」と書いてあります。そう、あなたが買った茶碗はオリジナルではなく「写し」だったのです(*注−「茶の湯」で使われる茶碗で、高名な作家によるものや由緒あるものには「写し」という精巧なレプリカが作られることがしばしばあります)。「写し」だとすればあの値段は高すぎるかも。さぁ、どうしましょう。品物を返し、支払った代金を取り戻すことができるでしょうか。
答えは、否。客が勝手に本モノと思い込んで店主に確認もせずに買ったわけです。店主は適正と考える値段をつけてそれを売ったまでのこと。店主が嘘偽りのセールス・トークをしていない限り、法律上問題にはなりません。客の勝手な思い違いで契約がいちいち無効になってしまったら、お店屋さんは安心して商売できなくなってしまいますね。そもそも、自分の鑑識眼を頼りに自らのリスクと責任で行う取引では、客の評価どおりであればボロ儲けです。逆に評価を誤れば自らがそのリスクを負担しなければならないはずです。古物商といっても、鑑識眼は法律上許可を受けるに当たり必要とされないことは前回お話しましたね。つまり、店主の鑑識眼は行政によってオーソライズされているわけではないのです。勿論、鑑識眼がなければ商売にならないことは明らかですし、それは客たりとて同じ事です。このように、骨董品や古美術品をめぐる取引は、ある意味で店主と客という玄人同士の腹の探り合いという面を持っています。こうした店主と客の虚々実々の駆け引きについて、法律は完璧なまでの高い倫理性(「バカ」正直であること)を求めているわけではないのです。
それでは逆に、店主がこの茶碗を「写し」だと信じて売ったものが、実はオリジナルであると後で知ったとしたらどうなるでしょう。この場合、この契約は無効になり、店主は代金を返し、客から品物を取り返すことができます。この結論、ちょっと変ですか。もしも店主がこの茶碗がオリジナルだと知っていれば、この値段で売ったでしょうか。きっと売らないでしょうね。もっといい値段をつけたはずです。このように、「売りたい・買いたい」という気持ちの前提にある重要な事実(ここでは、オリジナルか「写し」かということ)に関して誤解があり、それを踏まえて値段などを提示してしまった場合、基本的にその契約は無効になります。
最初の例との違いが分かりますか。取引関係に入る前に、両当事者は「茶碗を○○円で買いたい」、「茶碗を○○円で売りたい」ということを心の中で考えています。これらの気持ちが表にあらわされ、うまく一致したところで契約は成立するわけです。最初の例はこれですね。でも、後者においては両当事者のいずれかが「茶碗」と「値段」の組み合わせに関連して心の中で思っていることと値段の提示とにズレがあります。このように法律は、当事者間における物(茶碗)とお金との交換が、少なくともお互いの心の中で釣り合っていることを要請しているのです。
心の中で実現したいと思っていることが、表に現れて初めて社会的な関係を有することになり、法律による規律の対象となります。ただ、今まで見てきたように、心の中で思っていることが全く考慮されないというわけではなく、それが全ての出発点になっています。というのも、わたしたちが「約束」を守らなければならないと考えるのは、わたしたち自身の自由な意思に基づいてそれらが結ばれているからなのです。