春日神社の階段


宇賀先生がなくなられて、今年で七年目になります。慶応義塾大学書道会の代表を終え、卒業。法律学者の道を志し、日々の研究に忙殺されたこの七年。時の流れは、はやくもおそくも感じられます。いま、わたしの胸の奥では先生との思い出が静かに眠っているようにも思えます。

先生との出逢いから十年近く経ちますが、多分、わたしはこの本に稿を寄せる人の中ではもっとも若い部類に入り、先生の一生から見ると最晩年にさまざまな教えを受けたということになると思います。わたしが実際に先生と接していたのは、わずか二年あまりなのです。でも、他の多くの方々と同様に、わたしにも大切にしている先生との思い出があります。

今回、執筆を依頼され、先生との懐かしい思い出のある三田の春日神社に自然と足が向きました。慶応義塾のすぐ横にありながら、卒業してしまうとほとんどいかなくなってしまった春日神社。久しぶりにうかがった神社は社務所の改築と道路の拡張で、先生が来ていたときとはほんのちょっぴり風情をかえてしまいました。しかし、急勾配の石の階段はいまでもかわってはいませんでした。

練習会のある水曜日。わたしは先生がくるのをいつもこの階段の下ところで待っていました。先生はこの階段をのぼるとき、「手すりの掃除・・・」といって毛糸の手袋をはめ、そして、この階段をおりるとき、滑らないように黒い革の手袋をはめてからおりていきました。小さく華奢な先生がこの階段でなにかあったらたいへんと、それはもう緊張してエスコートさせていただいことを昨日のことのように思い出します。

ある日、雨が降って階段がぬれ足元が滑りやすくなったとき、わたしは先生に「お手をどうぞ」と手を差し伸べたことがありました。そのとき先生はこんなことを言いました。「その右手は、あなたの大切な人のためにとっておきなさい」と。わたしはあっさりとふられてしまったのですが、そのときは、本当にうまいことをいう、粋な断り方とはこのようなものだ、と感心することしきりでした。

先輩からこんな話を聞いたことがあります。春日神社の境内に至る坂に「男坂」と「女坂」という二つの坂があるそうです(わたしも最近までその存在をついぞ知りませんでした。・・・「男坂」は勾配が急な方で「女坂」はそれが緩い方であることは容易に想像できますが、いまとなっては、この石の階段が「男坂」だったのか、他にもこのような坂があったのか、また「女坂」はどこにあったのか、いずれも確認することはできません)。先生は、ある日「女坂」というのを見つけたそうですが、決してその坂をのぼって春日神社に来ようとはしなかったというのです。先生の書作品を見ても、お詠みになった歌を見ても、あふれんばかり情熱、ひたむきさそして力強さを感じ取ることができます。

「金銀泥 料紙の上に筆線の のび極むまで命をたまへ」

先生は、自分お一人で春日神社にくることができる間、慶応書道会で指導しようと考えていたのかもしれません。そう、わたしの手を借りるようになってはおしまいと考えておられたのではないかと思うのです。

気丈さをユーモアというオブラートに包んだ本当に素敵な先生でした。

春日神社の階段で、そんなやりとりができたのは、ほんの数回。十二月に書道会の代表になって先生が他界する五月まで、月に一度の先生を囲んでの練習会でした。この階段の下まで送ることを認め、そこから先のバス停まで送ることを決してみとめなかった先生。先生の帰りを姿が見えなくなるまでいつまでもいつまでもお送りしたことが、懐かしく感じられます。

この階段の上り下りでの先生との会話は、わたしだけの特権でした。人に対するおもいやり、人との接しかた、立ち居振舞い、先生は身をもって教えてくれました。そこで学んだことが、さまざまな場所に出ることが多くなった今、とても役に立っていることはいうまでもありません。北海道の小さな炭坑の町に育ったわたしが、すんなり都会の空気になじむことができたのは、先生から「紳士道」を習っていたからかもしれません。

日々生活する中で、遠くなってゆく先生の記憶。しかし、わたしの東京での生活の「起点」がここにあります。


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