「駻馬」とは暴れ馬のこと。馬の話となると「大井、府中か中山か」といったコトを期待する向きもあるかもしれません。でも、今日はそんな皆さんの期待をあえて裏切ってみようと思います。
米国の連邦取引委員会。日本の公正取引委員会にあたる役所です。ここに石像があります。猛々しく荒れ狂う大きな馬を隆々とした体躯の男が手綱をつかみ、御し、押し止めようとしています。この姿は一体どんなことを象徴しているのでしょうか。
経済的な自由は、さまざまな側面で考えることが可能です。開業の自由、営業維持・存続の自由、廃業の自由。何を売るか何を買うか。誰に売るか誰から買うか。いくらで売るかいくらで買うか……。これらの内容について「国家から」とやかく言われることは原則ありません。また、売ったり買ったりできるのは「自分のモノ」が「自分のモノである」と主張できるからです。自分のモノであればこそ、どのような条件で売ろうが勝手なわけです。このように人々が出会い、相手を見つけ、取引するための競争の場を私たちは「市場(しじょう)」と呼んでいます。市場では、需給に応じて価格が客観的に形成され、それに規律されながら取引が行われます。すなわち、人々が必要な商品を金銭と交換する場合、如何なる品質のモノをいくらで取引するか、これは市場価格を参考にしながら示されますし、これを無視して設定することはできません。このような世界では、先の「自由のルール」ともいうべき法秩序を基盤に、価格を媒介とする交換メカニズムが正当性と妥当性を有するがゆえに人々に信頼され、一定の安定性を生み出しています。この意味では、競争を通じて一定の経済秩序が形成されているといってもよいでしょう。
しかし、競争による淘汰を通じて、かような秩序にも変化が生じてきます。勘と能力にモノを言わせ成功を勝ち取る者もいれば、運に恵まれず市場からの退出を余儀なくされる者もいるでしょう。競争の帰結です。結果、ワガモノ顔で市場を牛耳る者が現れてもおかしくありません。ここに国家の介入が要請されるわけです。それは、市場の秩序を取戻し、自由を回復するために行われる介入です。
――市場は暴走し自由を抑圧する可能性を秘めている。
――かかる暴走を理性的な国家は規制する必要がある。
歴史の中で掴みとった先人たちの経験です。しかし、国家の介入が期待通りの成果をあげていないということも現在私たちの知るところとなっています。国家をコントロールしているのも、市場の秩序を作り出しているのも人間です。市場では悪魔の顔を見せる人間が、国家では理性的な天使の顔をしている。どうもこれまでのルールや制度の前提には、そんな根源的な問題が潜んでいるような気がします。いま、国家と市場の関係が改めて問われています。