情報の値段


ふと「情報の値段」は、どのようにして決まるのだろうと考えた。こんなことが頭に浮かんだのも、最近、わたしが新聞をとろうと思ったことが、きっかけである。ちょっとしたトラブルから、「二度と新聞などとるものか」と「ボイコット」を開始して以来、五年以上も新聞をとってはいない(もちろん、気が向いたときに駅の売店で、それこそさまざまな新聞の中から選んで買っていた)。だからといって、それほど不自由を感じていたわけではなかったが、わたしのそうした感情を覆すような出来事があった。インターネットによる新聞の「配達」である。

全国紙(?)であるS新聞は、月千円でインターネットを経由して新聞を届けてくれる。毎朝午前四時には朝刊がその新聞社のホームページからダウンロードできる。情報は圧縮してあるので、それを解凍して、WWWブラウザ(ホームページを見るためのソフト)で読む。もちろん全文読むことができる。かさばらない。ごみが出ない。しかし、画像情報はない。広告もない。テレビ欄もない。でも、そんなものそもそも必要ない(ちなみに私の家にはテレビもない)。ある意味、究極的にはこのような流通システムでこの値段が実現する。全国どこでも値段が同じであるということは、情報そのものの値段に由来するというより、むしろ労働集約的な流通システムを維持するための費用がほとんどであったのだろう。これまで、自分の専門に関する記事はパソコン通信のクリッピングサービスで受け取っていた。一分当たり三〇円を支払ってである。有名経済紙を読もうとすると、それよりかなり(法外ともいえる)高額な対価を支払わなければならない(この会社の子会社が運営するパソコン通信に加入すれば別である)。結局、新聞を一月買ったほうが安上がりになるような、値段が設定されていた。全文を読みたいと思えば、今、私がここに住んでいる以上、あの新聞販売店から新聞を買わざるえない。しかし、今は違う。

われわれは、「情報化社会」という言葉がもてはやされた二五年以上前から、あるいは近時のインターネット・ブームよりずっと前から、知らず知らずのうちに情報を売ったり買ったりしてきた。しかし、それは紙などの媒体に固定されて売られている「もの」が前提となっていた。「もの」である以上、それ自体に費用はかかるだろうし、それを買い手のいるところまで運ばなければならないから、それにも費用がかかる。

しかし、いまや情報は「もの」を媒介せず流通してくる。つまり、情報そのものの価値で勝負する時代となる。いつまでも横並びの情報産業が生き残るのは、難しい。

ある出版社の人からこんなことを聞いたことがある。「本の値段はね。それにかかる原価を五倍してつけるんだよ」と。


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