年末から年始にかけて北海道に帰省した。ここ十年余り、正月の帰省はわが家の重要な年中行事に参加することが主な目的になっている。
初売り。マスコミでは、毎年、旧伊達藩城下の初売りや超豪華福袋を売る百貨店が話題になり、今年は元旦営業の大手スーパーも話題にのぼった。私の田舎でも、商店街の初売りは、それほど派手なものではないが、それぞれの小売店にとって大きなイベントのひとつである。
私の実家は田舎で文房具店をやっている。正月の初売りはそんなわが家の一大イベントなのである。
私は、小学生になるかならないかのうちから、お手伝い(?)と称して、嬉々としてこの初売りの邪魔をしていた。北海道の冬。火鉢に炭をくべ、店先にテントを張り、露店を出して福袋を売る。このスタイルは今も変らない。正月一日といえば、「寝正月」と相場は決まっているものだが、わが家にとっては次の日の準備がある。テントを張ったり、問屋さんから送られてくる福袋の中身をチェックしたりする。かつてのようにメーカーも商品を作りたいだけ作り、残りは福袋用というようなことはほとんどしなくなった。かなり量は絞られてくる。そうなると福袋にいいものは回って来ない。だからといって、わが家のような零細小売事業者が自ら福袋を用意するほど在庫を潤沢に持っているわけでもない。どうしても問屋が頼りになる。しかし、かつてのように余っている商品もないから貧弱な内容になってくる。あまり中身がひどいとわが家の評判にかかわるため、若干水増しをすることもあった。
今年も朝早くから店頭に立ち、福袋を売った。毎年一度のことではあるが、何せ二十年近くも続けていると、いろいろなことが観察できて興味深い。
ほんの十年ほど前までは、「お年玉」と書いた袋を握って買いに来る子どもが多かった。われわれの年代の女性には思い出深い商品だと思うが、うちはサンリオの商品、いわゆるファンシーグッズを取り扱っていたので女の子のお客さんがとても多かった。一時期はサンリオの福袋も置いていて人気があった。男の子がどちらかというとおもちゃ屋さんの福袋を目指して行くのに対して、女の子はうちを選択することが多かった。男の子がくる場合は、「おもちゃなど詰らぬ物を買うくらいなら、学用品を買いなさい」という母親の姿が後ろにあった。そんなときも、そのかじかんだ小さな手で不器用にお札を数えている姿がいまでも思い出される。
出雲市長だった岩國哲人氏が、かつて「中央が地方に適正に分配しているのはお年寄りの数」と皮肉っていたが、今年店頭に立って驚いたのは、わがふるさとのお年寄りの多さである。いつのまにかわが家に買い物に来る客層は上がった。福袋も、正月に遊びに来る孫を喜ばせようにも、どうしてよいかわからないお年寄りに便利なものとなってしまった。今や数少なくなってしまった子どもをみると、すっかりコンパクトになったおもちゃ屋さんの紙袋。どうもお年玉の使い途は、ゲームソフトに変ってしまったらしい。大きなおもちゃの入った袋を誇らしげにもつ子どもがすっかりいなくなってしまった。
正月の初売りでみる風景一つとっても、その街の人口、世代構成を垣間見ることができる。私のふるさとは炭坑の町として栄えていた街で、かつては炭坑夫が多かった。炭鉱が羽振りがよかったこともあって、縁起物としての福袋はたくさん売れたという。しかし、今では過疎化で購買人口も減って、わたしが記憶している数の五分の一まで減った。
初売りにおける福袋とは、縁起物的要素、お祭り的要素という点からみても、前近代的な取引方法といえるし、まっとうな取引という観点からみれば、ナンセンスな売り方あるいは買い方なのかもしれない。価格ばかりでなく、中身本位で選択する顧客が増えているのは、都会だろうが田舎だろうが変わらない現象である。祖父は、孫の私と一緒に店頭に立つことを毎年楽しみにしているが、近い将来、福袋という物もわたしの思い出と共に過去のものとなってしまうのかもしれない。