慶應義塾大学に来てから6年が経過した。自分は毎年1才年を取るのに、ゼミには毎年20才の学生が
入ってくる。つまり、私とゼミ生との年齢差が、毎年1才づつ開いているわけだ。6年前は“親子”
でよかったのだが、最近は“祖父と孫”になりつつある。もちろん、自分では意識していないが・・・。
慶應義塾大学からお誘いを受けたとき、当初、授業を持たなくて良いことになっていたのだが、文
部省が認めないということで商学部に所属し、ゼミも担当することになった。「学者ではない私に勤
まるのか」不安だったが、諸先生方のご指導・ご援助により、何とかここまでやってくることができ
た。
結果的には、とてもよかったと思う。若い学生達と話をするのはとても楽しいというだけではなく、
良いゼミ員に恵まれて、彼らに研究のアシストを頼むことが出来た。研究室への学生の出入りが多く
なり、周りの先生に迷惑をおかけしたかも知れないが・・・。その点は、お詫びしたい。
国家公務員が長かったせいか、学生達を見るとき、つい、「この人達に次の日本を任せられるだろ
うか」と考えてしまう。慶應義塾大学の学生は、総じて頭が良いだけではなく真面目であり、それ程
問題はないのだが、「日本が“本当の先進国”になるためには、あまりにも改めるべきことが多い」
と、常日頃感じ続けてきたものだから、学生達に、単に企業の有能な社員となるにとどまらず、日本
の政治・経済を一歩、二歩前進させるような、社会的にも有能な人材に育ってほしいと、期待してし
まうのである。
そのような観点から、周りの学生を見て気になっていることを2〜3書き出してみた。なお、その
多くは「慶應の学生」ということではなく、どの大学にも共通の現象であり、ジェネレーション・ギ
ャップが私にそう感じさせるだけかも知れないが・・・。
1 学生街の喫茶店
昔「学生街の喫茶店」という歌があった。多くの学生が、本を読んだり語り合ったり、仲間達とゼミ
やサークルについて相談したり、時には先生を囲んでディスカッションしたり、1杯50円のコーヒーで
遅くまで粘っていた。喫茶店は、勉強の場であり、ロマンスの場であり、学生運動の場でもあった。
6年前、慶應義塾大学へ来て最初に気がついたのは、周りに喫茶店が少ないことである。カラオケ店
や安い飲み屋・食い物屋が目立ち、落ち着いて話が出来る場所がない。来た当時は、正門前に1店クラ
シックな喫茶店があり、愛用していたのだが、昨年廃業してしまった。いま、学生たちは、どこで本を
読み、勉強し、恋を語りあっているのだろう。仲間達と相談しなければならないとき、どこに集まって
いるのだろう。図書館が学生で溢れているのを見たことはないのだが・・・。
2 100点以上の世界を知らない
私のゼミでは、年数回、自由テーマによるディスカッションを行っている。一昨年、「10年後の日
本は、今より良くなっているか悪くなっているか」を議論させたところ、「良くなっている」と「悪く
なっている」がほぼ半々に分かれ、結構活発な議論になった。ただ、このような議論になると、どうし
ても学生たちの勉強不足が目立ってしまう。意見の大部分が、その時々のマスコミに影響されたもので
あり、評論家的なのである。大学で学ぶ経済学や政治学、統計学等は、社会の仕組みや物事の原理・原
則を教え、自分の頭で考える力を育てるものであるはずなのに・・・。
それでも、他の大学の先生方とこの話をすると、「それは慶應の学生相手だから言えることですよ」
と言われる。「私の大学の学生は、ディスカッションなど出来ないし、課題を与えてもやらない」とい
うのである。たしかに、慶應義塾の学生は、研究発表をさせてもレポートを書かせてもきちんと対応す
るし、誤字脱字も少なく、日本語にならないような文章を書いてくる人は、まずいない。しかし、何か
が足りないと感じるのである。
社会には、日常生活が50点〜70点であっても、一生の間に1つだけ、革新的な発明や発見をする人が
いる。そのような人によって経済社会は大きく進歩させられたのだが、周りの学生たちにその可能性を
感じることは難しい。
慶應の学生は(おそらく東大や早稲田も)、厳しい受験や評価をくぐって入学してきただけに、たし
かに優秀なのだが、小学生から大学まで、試験々々に追われてきたせいか、考え方が「減点思考」にな
っているように思う。つまり、勉強でもディスカッションでも、「どうしたら高い評価を得られるか」
ではなく、「どうしたらマイナスをせずにすむか」と考えるから、斬新さが出てこない。面白くないの
である。学生たちに「100点以上の世界がある」ことを、是非、知ってほしいと思うのだが・・・。
3 自己“虫”?
慶應の学生の基本的な思考方法も、現代学生に特徴的な「ミー・イズム」の傾向が強い。すべてを自
分中心に考え、うまくいっても失敗してもすべてを“自分”に帰着させる。周りに目を向け、自分が置
かれている条件そのものを変えようとはせず、与えられた条件の中で、どれだけプレーアップできるか
だけを考えるのである。
仲間達との交流は、自分が面白かったかどうかが、価値判断の最大の基準になり、学校でも酒の席で
も暗いのはダメで、盛り上がれば満足する。内容が伴った盛り上がりならそれでも良いのだが、必ずし
もそうではない。
雇用する側から見ると、このような学生は、兵隊として使う分には、あまり気を使わなくとも済む便
利な人材かもしれないが、厳しい国際競争を乗り切るためのリーダーに任命するのは、躊躇するだろう
。もちろん、社会全体の発展に寄与するような人材として期待することは難しい。
ただし、これは、あくまで一般的な学生の特徴を言ったのであって、決してそのような学生ばかりと
いうのではない。
そもそも社会にとって、真のリーダーは100人か1000人に1人いればよいのだから、大多数は、そこ
そこに優秀であれば足りる。ただ教える側としては、自分のゼミから、その100人あるいは1000人に1
人が、是非、出てほしいと願うのである。
4 Aの数について−ある学生同士の対話−
3年前、私のゼミに、商学部で成績1位になり、表彰された女性がいた。彼女の同期に、頭は良いの
だが生活態度がチャランポランな男性がいて、夏合宿で彼女に、「あなたはなぜ、毎日授業に出ている
のか?そんなにAを取ってどうするのか?俺は、ほとんど学校に来ないけれども、そこそこにAはある
し、就職もうまくいった。」と議論をふっかけた。それに対する彼女の答えは、「あなたはAを取りや
すい科目ばかり選んで履修しているでしょう。私は、自分が勉強したい科目しか履修しないから、当然
、授業に出る。4年生になって、商学部に興味のある科目が残っていないから、他学部の科目を中心に
勉強している」であった。
別項の「What is 東大」に示したように、中央官庁を典型とする「学歴社会」が存在するからだろう
か。東大や慶應の学生は、入試に合格することがそれまでの人生の目標となり、入学した後は、卒業す
ることのみが目標になって、学生時代が中抜きになりがちである。言うなれば“きせる的学生生活”で
ある。その結果、学生生活で一番時間を使うのは、アルバイト(楽しい学生生活に必要な資金稼ぎ)で
、最も関心がある話題は男女の交際になる。4年間の間にまともな本を読んだ経験はなく、テキストす
ら買わない学生がいる。事実、期末試験が近づくと、生協の書籍部とコピー室が大賑わいになるのであ
る。
どうやら、慶應義塾大学といえども“学園天国”に変わりはないようである。実社会に出ると本を読
む時間などなく、後で後悔するかも知れないのだが・・・。
そのような中で、この2人の論争は、大きな刺激となった。聞いていた周りの学生も、部屋に戻って
から、しばしこの話題で“盛り上がった”のである。