[読書雑記]


  • 2001年05月26日記

  • 高等学校のときだったであろうか、集英社の雑誌でヤング・ジャンプというのがあったのだが、それに連載している漫画に「栄光なき天才たち」というのがあった(*)。当時、寮生活をしていたので、雑誌などには事欠かなかったのであるが、これだけは毎週買って読んでいた。

    さまざまな話があったのだが、いまでも忘れられない物語があった。一つは、理化学研究所の物語。いま一つは、鈴木商店のそれであった。いずれもよく勉強して書いてあり、最後に必ず参考文献が載せられていた。この漫画から、わたしの読書の幅が増えたことはいうまでもない。よくこの欄などで登場する寺田寅彦は、この漫画を読んだことがきっかけで、随筆集を本屋に買いに行った。また、いわゆる日本の商社の先駆けであった鈴木商店については、その後参考文献に載っていた城山三郎の小説『鼠』を興味深く読んだ。ほとんど小説を読まない私であるが、不思議と城山三郎だけはその後、結構読んでいる。

    先日、日本経済新聞社から『「科学者の楽園」をつくった男』(**)という本が出た。どこかで聞いたことがあるタイトルだと思い、手にとってみた。中身を見て息をのんだ。高校時代に読みたいと思っていたがが、結局手にいれることができなかった本だ。「栄光なき天才たち」に出ていた理化学研究所のエピソードにたいへん興味をもちながら、高校時代に読まずに終わった本。これが、文庫版で登場した。あとがきによると、これは、1983年に文芸春秋から『科学者たちの自由な楽園―栄光の理化学研究所』という題名で刊行されたものらしい。あの連載は、これを参考文献に挙げていたのだ。年代的にも合点がいく。

    早速買い求め、一気に読んでしまった。日本にもこんなすばらしい研究所が存在したという事実にただ舌を巻くばかりであった(およそ十数年ぶりに)。文系学者で大学に附属している研究所に勤務しているわたしであるが、このさわやかな学問の砦がとてもうらやましく思える。理科系の研究所の現状は、よく知らないが、今我が国にも多くのシンクタンクなるものが存在する。しかし、多くが政府系か民間であったとしても金融機関の子会社であったり、ある評論家が自らの事務所を○○総合研究所と名づけている場合が多く、「知の集積・利用を非営利(***)・中立なかたち」で展開している研究所が見当たらない。大学こそその役割を担いうるのかもしれないが、学部とは違い、附属の研究所であってもやはり学際的な議論や共同プロジェクトはなかなか立ち上がらない。わたしの現在の立場を含め、高校時代とはまったく別の視点でこの本と向き合うことになった。


    (*)手元にないので、原作者や漫画家の名前をリファーできない点は、ご容赦願いたい。おそらく、集英社のコミックスとして単行本化されているはずである。なお、この原作者、何かの本に書いてあったが、連載当時、東京大学の学生だった。で、大学を卒業してから大学院に進学し、その後、わたしの記憶が確かであれば、群馬の大学で社会学を講じているとのことだ。もちろん、現在、コミックスの原作者としては活躍していない。

    (**)宮田親平著「『科学者の楽園』をつくった男―大河内正敏と理化学研究所―」(日本経済新聞社・2001年)743円(税別)

    (***)もちろん、非営利だといっても、収益をあげることを否定するものではない。


  • 2001年05月19日記

  • 自然科学の分野では、たいへん権威ある雑誌、"ネイチャー"誌上で、数年前、非常に興味深い論文が発表されたということを当時のニューズウィーク誌で知った。それは、ネクタイの結び方に関する数学の論文で、ケンブリッジ大学の先生によって書かれたものだった。記事によると、ネクタイの結び方は理論上、85種類考えられるということを数学的に証明し、さらにネクタイの結び方に関する美しさの基準を数学的に明らかにしたということだった。その上で、この美しさの基準を満たし、かつ、現在知られていない結び方を理論的に9種類も「発見」したという。

    わたしが、ある本で見た記憶によると、ネクタイの結び方はここ半世紀以上も新しく考案されていない。このような状況の中で、一気に9種類も見つけたわけだから、それは大事件である。このように直感したわたしは、早速、ネイチャー誌を図書館でコピーし、これまで学んだ数学の知識を総動員して読んだことを覚えている。ネクタイの結び方といえば、プレーン・ノット、ウィンザー・ノット、セミウィンザー・ノット、オナシスなど4種類程度しか知らないわたしにとって、85種類も結び方があることには驚いた。しかも、美しい結び方を数学的に定義づけたこともユニークだった。面白いことに、これまで知られた結び方の多くは、この美しさの基準を満たしていたのだ。

    時間が許せば、この論文、できればわたしが解説したかった。この論文は、優しく書けば面白いものになる。そう確信していた。そう思っていた矢先、『ネクタイの数学』(*)が出版された。やっぱり、出たか。ほんと、分かりやすく書いてある。多少専門的な点に関しては、補論で取り扱われている(関心のあるむきはぜひ呼んでもらいたい)。

    美しさや心地よさという感情は、数学的にも正しいということを気付かせてくれる。数学はここまで身近だ。学問は、洒落者がやれば、もっと面白く出きる。


    (*)トマス・フィンク、ヨン・マオ著、青木薫訳『ネクタイの数学』(新潮社・2001年)695円(税別)


  • 2001年05月12日記

  • 数年前に買っていた本なのだが、本棚の肥やしとなっていた本を手にとった。飛田茂雄著『アメリカ合衆国憲法を英文で読む』(*)。なかなか、痛快で面白い本だった。というのも、法律の素人である英文学者の筆者が、これまで刊行されてきた米国憲法の翻訳―それも著名な法律学者の翻訳―を徹底的に分析し、その文法的な誤りや勘違いについて、一つ一つ取り上げ、議論の俎上に載せているからである。取り上げる一つ一つの論点については、確かに本書のお説はごもっともであり、翻訳をする場合には、英語の文法の知識のみならず、著者のように米国の歴史に関する深い教養も必要だということも改めて感じさせられる(当たり前であるが…。でも、それがなかなか難しい。)。よっぽど心して翻訳という作業に取り組まないと、とんでもないことになるというある種警告の書といってもいいかもしれない。まぁ、そうはいっても、複数の人が同じテキストを前提にさまざまな翻訳が試みられてこそ、翻訳そのものの発展が望めるものである。ちょっと挑発的な感じもするが、米国憲法を分かりやすい翻訳とともに取り上げているので、普段法律などには縁のない読者にとっても、親しみやすく、大変読みやすいものとなっている。

    近時、憲法に対するさまざまな見方が、提示されているものの、わが国の憲法の特有の問題に目を向けがちで(例えば、安全保障の問題や天皇制の問題など)、わが国の憲法の中に脈々と息づいている普遍的な原理について、触れられることは少ないように思われる。案外、この事実自体取り上げられることは少ないが、わが国の憲法こそが、実は、近代立憲主義の伝統を正当に受け継ぐ憲法なのである。そのことは、米国の憲法と比較することによってそれを再確認することができるだろう。そうした作業に非常に助けとなる手軽でよい本である。


    (*)飛田茂雄著『アメリカ合衆国憲法を英文で読む―国民の権利はどう守られてきたか』(中央公論社・1998年)


  • 2001年05月10日記

  • アンソニー・ギデンズ『第三の道とその批判』を読了。

    ちょっと前に紹介したアンソニー・ギデンズの『第三の道』。これに加えられたさまざまな批判に、ギデンズ教授が回答・補完したのが本書である。残念ながら、翻訳はされていない。保守派やリバタリアン、そして古典的な社会主義者からの批判の整理をし、中道左派の独自性を、高度に発達した資本主義とりわけ知識経済との関連、グローバリズムの進展との関連で検討し、議論の深化を試みる。

    マニフェスト的で断片的な宣言の書であった前著に比べ、議論もより精緻で読み甲斐のあるものとなっている。とくに、平等に対する問題について、より突っ込んだ言及がなされている。この論点は、左派の左派たる特質を示した論点だといわれている(ボッビオ『右と左』)が、旧来の社会民主主義の捉え方とは一線を画しており、示唆に富んでいる。

    問題は、これらの抽象的な政治哲学上の理念・考え方を、どのようにして実体化し、現実の政策に生かしていくことだろう。


    (*)Anthony Giddens,"The Third Way and Its Critics"(Polity,2000).


  • 2001年04月28日記

  • 小泉内閣が発足した。構造改革を標榜する内閣でとりわけ経済分野の閣僚が注目を集めている。今回、民間から経済担当大臣に任命された大学教授の竹中平蔵は、ここ数代の内閣においてブレーンを務めており、マスメディアにもしばしば登場していた。そのためか、一般の人の目にも触れることが多かったエコノミストの一人であろう。しかし、彼がもともと日本開発銀行に所属し、大学教授になったという経歴は比較的知られていない。とりわけ、開銀時代の下積みの時期に経済のイロハを授けた人のことは、おそらく全く知られていないことだろう。わたしはあの人のことを思い出し、いまから十年程前に読んだ本を取り出した。

    下村治。日本開発銀行のシンクタンクの親玉をやっていた男である。わが国において、はじめて政治が国民を一つ連帯感というもので結びつけた政策、「所得倍増論」を考案・演出したエコノミストである。下村治の評伝が『思い邪(よこしま)なし』というタイトルでバブル崩壊間もない時期に刊行された。この人のことは、この本で始めて知った。当時、エコノミストによる経済論争が盛んに行われ、分野は違えど一生懸命耳をかたむけていた。あの時期からエコノミストという人種と主張に関心があり、いろんな本を蒐集しては読んでいた。この本もその一つである。下村治を含む当時のエコノミストたちの議論が分かりやすくフォローされており、真摯にわが国の経済の在り方を命がけで議論している姿が臨場感をもって描かれている。良い悪いは別として、経済理論というものがどのようにして政治に紛れ込み、そして政策として実施されていくのか。この関わりあいが興味深い。

    近頃のエコノミストは数多く出ているが、本書で描かれた時期のエコノミストのように命がけで自らの信念や理論を語る迫力のあるエコノミストはいない。学問としての関心も大事だが、とりわけ社会科学を研究している者(もちろん、わたしも含めてであるが)は、現実の問題に対し、責任ある発言をするためには、こうした信念・理念というものを抜きにはあり得ないし、失ってはいけないと改めて感じさせられた本である。

    なお、この本は、文春文庫から1999年に『エコノミスト三国志―戦後経済を創った男たち』というタイトルで刊行されており、手に入れることができる。


    (*)水木楊著『思い邪なし―下村治と激動の昭和経済』(講談社、1992年)。


  • 2001年04月23日記

  • ちょっと前になるが、木村剛『通貨が堕落するとき』(講談社)という本が出た。いまでも書店の棚にはあるに違いない。日銀エリートが金融問題を題材にした小説を書いたと話題になったことがある。わたしは、まだこの本を読んでいない。ただ、題名が気になった。"通貨が堕落する"とはどういうことか。この本を読めばきっとこの問題の解決にはなったのだろうが、わたしはフィクションというものを、事実ではないということ、ただ一事をもって蔑む傾向がある。だから、どうしてもこのような本は後回しになる。

    この題名の由来が、ケインズの著書にあることを知ったのはつい最近のことである。ケインズが1919年に書いたエッセイに"インフレーション"というのがある。これを勤務先の図書館から借りて、パラパラめくっていたら、たまたまこのフレーズを見つけた。驚いたことにこれはレーニンの言葉であるらしい。しかし、ケインズはその出典には言及していない。

    曰く、「レーニンはかつて次のように述べたことがある。資本主義システムを破壊する最もよい方法は、通貨を堕落させることである」と。又曰く「レーニンは確かに正しかった。通貨を堕落させること以上に、現に存在する社会の根幹を転覆させる、より巧妙でより確実な手段はない」と。

    ケインズは、このエッセイの中でインフレを継続することによって政府が国民の富の重要な部分を、秘密裏にそして気付かないように、恣意的な形で取り上げることができると述べている。そして、その恣意的な措置は、社会システムの安全性だけではなく、富の配分システムの平等性に対する信頼をも奪ってしまうかもしれないという。つまり、棚ぼた的不当利得者が現れ、富の配分においてさまざまな歪みをもたらすのである。

    インフレは、たしかに債務者の地位をよりよいものにするだろう。だから、借金漬けの政府にはおいしいはなしなのかもしれない。他方、インフレは、通貨の価値が下落することなのであるから、お金を持っていても何の特にもならぬ。だからモノを買うきっかけになるかもしれない。このことは、消費の低迷に悩むわが国の経済にとっては望ましい処方箋といえるのかもしれない。おそらく、最近注目を集めている調整インフレ論は、こうした背景から主張されているのだろう。たしかに、興味深い見解ではあるとは思うものの、われわれ日本人はしばらくインフレを経験していない。その恐ろしさも忘れかけている。この議論が、本当に有益なものかどうかは、社会を構成する人々の平等観にもっと訴えられるべきであると思うし、その意味ではマクロ経済的な議論だけではなく、もっと政治哲学的ないしは道徳哲学的な検討がなされるべきものなのではないだろうか。ケインズの警鐘を偶然垣間見たわたしはふとそう思ったのである。


    (*)J.M.Keynes,'INFLATON',"ESSAYS IN PERSUATION"(MACMILLAN CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS)


  • 2001年04月18日記

  • いつだったかの日本経済新聞に、"現代政府系シンクタンク事情"についての記事が出ていた。シンクタンクの多くが特殊法人化されることになり、政府系シンクタンクはさまざまな意味でその意義を問われている。それゆえ、生き残りをかけ、民間との人材交流や新規プロジェクトなど、さまざまな試みがなされている、とかいう内容だったと思う。これらの具体例として、ある政府系シンクタンクが、経済産業省の若手を招き、研究会を開いたことが指摘されていた。

    この経済産業省の若手が書いた本が、いまちょっと話題になっている。『日本経済の罠』(*)である。四百数十ページ。最新の経済学の成果をふんだんに使い、現在の日本経済の長期低迷の原因を明らかにしている。わが国経済の長期低迷に対する対応策として、マクロ経済的見地からは、公共事業を含めたケインズ的政策が、ミクロ的見地からは構造改革が唱えられてきた。これまでの政策論争(現在の自民党の総裁選でも)は、これらの二項対立の問題として議論されることが多かった。しかし、実は構造改革の根本原因である不良債権こそがマクロ経済に大きな影響を与えており、長期低迷状態で均衡しているわが国経済に対し、いくら経済対策という名のケインズ政策をとっても意味がないことが説得的に展開されている。

    わが国の長期不況に関する事実認識とそれに対する問題の切り口が分かりやすく丁寧に述べられており、経済学の専門家ではないわたしにでも容易に理解できる記述となっている。問題の核心に確実に迫る感覚は、読んでいて本当にエキサイティングだった。このような気持ちになるのは珍しい。

    政策提言については、前半の経済分析に比べ精彩は欠いているものの、経済分析による政策スキームがどのような形で法制度設計に結びつくかが立体的に描かれている。そのような意味で、この本は具体的な形で経済分析と法制度設計の橋渡しをしている良書であるといえよう。経済専門家よりもむしろ法律の専門家、いままでの経済論争についていまいち理解しきれずに臍をかんでいた人にこの本を薦めたい。


    (*)小林慶一郎・加藤創太著『日本経済の罠―なぜ日本は長期低迷を抜け出せないのか』(日本経済新聞社、2001年)2000円+税。


  • 2001年04月13日記

  • 世にマキャベリストとは、目的のためには手段を選ばない合理主義者をいう。権謀術数主義者という意味もある。とかく評判のよろしくない代物だが、この言葉、マキャベリの『君主論』にその思想の沿源を求めることができるといわれている(だから、「マキャベリスト」なのである)。『君主論』を断片的に抜き出し、解説をくわえる本などが世の中に経営"術"の本として出回っているが、これらの部分を一瞥する限りでは、確かに世にいう合理主義思想を見いだすことができる。しかし、本当にそうなのだろうか。常識というモノに、疑念をもつ天の邪鬼な性格の故だろうか。これがどのような経緯で「常識」になったのか。これが知りたくて、この度『君主論』を読みたくなったわけである。

    ちょうど、中央公論新社から、中公クラシックスというシリーズで第一回目の配本に本書が入っていた。はっきりいって、有名な「世界の名著」シリーズの焼き直しである。いまや老舗出版社の多くは「古典復刻出版社」とあいなったわけであるが、古典が文庫や新書になって手軽に読めるようになることはわたしにとっては喜ばしいことではある。

    実際、本書を読んでみるとこれまでの「常識」がかなりの面で違っていることに気付く。前半部分では、君主というより統治者としていかに国を治めていくかを国の在りように応じて論じている。いわば統治の手法や人心掌握術についての考察が具体例を伴いつつ行われている。後半では主に統治者の在り方の指針が描かれている。おそらくその一部が誇張され「常識」が醸成されたのだろう。よく読んでみると、目的と結果の対立や調整、あるいはいずれかの優位性を述べているのでは必ずしもなく、人心掌握(大衆心理)の見地から、統治者としてある状況下においては、不道徳ないしは非情な手段もやむを得ないとしているのである。

    このことは、同時並行的に執筆されていたとされる、別の著書『ディスコルシ』との比較からも容易に推測できるらしい。これもいずれ読みたい本である。

    わたしたちは、題名によって多くのイメージを喚起させられる。これまでの「常識」は本書の題名に多く依存していたのではないだろうか。わたしに言わせれば本書は『統治(者)論』である。しかし、これではあまりにもパンチのない題名になってしまう。


    (*)マキアベリ著、池田廉訳『君主論』(中央公論新社、2001年)1200円+税。


  • 2001年04月10日記

  • 4月6日に都内某所で出版関係者を対象にしたシンポジウムがあり、パネラーとして参加した。その席中、話題になった本がある。いま、業界の人を含め、よく売れている本だそうだ。『だれが「本」を殺すのか』(*)。ちょっとショッキングな名前である。

    どこかで見たことがあると思えば、しばしば行く台場の本屋で平積みになっていた。出版流通の問題にかねてより興味を持っていた私にとって、この本は気になる存在ではあった。しかし、その名前ゆえ購入することなくやり過ごしていた。わたしは、とりわけこのようなジャーナリスティックな捉え方をするノンフィクションには、極めて慎重な態度を取る傾向がなる。学術的関心が強い分野であれば、なおさらその傾向は強い。なぜか分からないが、快刀乱麻的なノンフィクションの切り口に、わたしの見る目がゆがめられないようにするための一つの自衛措置なのかもしれない。

    出版の流通に関する問題の言及自体は、わたしにとって、それほど目新しいものではなかったが、未曾有の出版不況下において、危機感は並々ならぬものとの緊張感が伝わってくる。

    本書中、興味深い事実を指摘してくれたのは、むしろ、公共図書館の在り方、そして書評のあり方を問う部分であった。あまりこの辺の問題にこれまで触れてこなかったせいか、新しく仕入れる情報も多かった。日頃から活字に触れる人間として、自治体などの文教政策を含め、もっともっと関心を持って調べたい分野である。

    本が好きだが、その本がどのようにわれわれ消費者の手に届くのか。これは、知っているようで案外知らない。この本は、こうした出版流通の問題に目を向ける絶好の機会を提供してくれる。


    (*)佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』(プレジデント社、2001年)1800円。


  • 2001年04月07日記

  • いま、少しずつであるが、ゆっくり読み進めている本がある。『ビギニング・XHTML』(*)という本である。題名が示すように、ホームページ作成のための指南書である。イギリスのWROX社のPROGRAMMER to PROGRAMMERシリーズの一つが日本語に訳され、このほど登場した。以前から、このホームページのユーザーインターフェース、読みやすさそして使いやすさについて多くの不満を持っており、改善したいと考えていた。しかし、技術がない。金もない。で、まず、この本を読んで自分でやれることからやってみようと思い、基本から学ぶことにした。

    曲がりなりにも、このようにホームページを公開しているわけだから、HTMLについての基本は知っている。この本のいいところは、この基本からさらに拡張的な知識を解説しているのがいい。無理なく、学ぶことができる。『サルでも・・・』式の用例がたくさんでていて、それをカット&ペーストすればよいという解説書が多く、一般受けもするようであるが、職業柄かどこか小馬鹿にされているようで、このような本に目を通すことはない(プライドが許さない)。解説は、本質を丁寧に説明してくれるものがいい。体裁は腰を据えてじっくりと取り組ませてくれるものがいい。このような本こそが私にとっての良書である。

    ちなみに、この本の分量は800ページ近い。


    (*)オープンウェーブシステムズ監修/株式会社サン・フレア訳「ビギニング・XHTML」(インプレス・2001年)4980円

    (**)このホームページをわたしの自己満足の手段としてご覧になっている方も多々おられると思うが、法令集や研究メモなどは、どこでもアクセスできるようにしておき、日常的に使うのがわたし流のホームページ利用法である。


  • 2001年03月28日記

  • 中央公論新社が新しい新書シリーズ「ラ・クレ(鍵)」の刊行をはじめた。その最初の一巻が『論争・中流崩壊』である。ここ数年、論壇を賑わせていた「平等国家・日本」の崩壊に対する議論の経過を、この数年間に公開された主要な論文等を回顧しまとめたのが本書である。一見、何と安易な編集方針と思いきや、意外にもこうした議論をフォローするのは、わたしのような暇な人しか無理であろう(この本を買っていること自体、わたしでも無理であったことが明らかである)。なんとなく、この問題に関心を持ちつつも、しっかりとフォローできずにいる人にとって、便宜を提供してくれる本である。

    すでに、この中の幾つかの論文についてはわたしも目を通していた。情緒的かつセンセーショナルに取り上げたモノも確かにあるが、むしろ今回の論争で重要なのはSSM(社会階層・社会流動性調査)と呼ばれる十年ごとに公表される実証的なデータに基づいて争われてる点である。しかし、このデータの読み方にもいくつかの読み方があることに気付かされたわけであるが、それも論争あればこそで、鵜呑みを免れることができた。

    わたしが東京に出てきたのは、まさにバブルの最中であったが、そのときに感じたのが「ある種」の直感的な「資産」格差だった。他方、最近のリストラ、失業率の増加、「勝ち組」と「負け組」に現れた議論、これらは「所得」格差を導くことに直感的に気付くのである。こうした背景からか、わたしは「格差」という問題に少なからず関心を持ちつづけきた。一概に結論付けられない問題ではあるものの、この問題に多様な視点から検討と議論がなされ、わたしたちの生活や社会が、安定しかつ生き生きしたものであり続けるための前提を、どのように築いていくかを考えていくための材料を本書が提供してくれていることは間違いがないように思われる。


    (*)「中央公論」編集部編『論争・中流崩壊』(中央公論新社、2001年)


  • 2001年03月22日記

  • しばらくカタい本が続いたので、昨日買ってきて読んだ本を紹介しよう。秋元麻巳子の『二人暮らしのお取り寄せ』(*)という本である。わたしと同じ世代ならば、著者の名前を聞いて「あっ」と思ったに違いない。そう、おにゃん子クラブの「高井麻巳子」である。ご存知の通り、いまは秋元康氏の夫人。こんな本を出しているなんて知らなかった。

    秋元家の食卓を彩る四季折々の「お取り寄せ」した名品が並ぶ。本の見開きに一つの品。イラストは著者本人によるもの。簡単な料理のレシピも掲載されている。

    品物の紹介をしたエッセイ風の文章の中には、丁寧で真面目な料理を作る著者の姿を垣間見ることができる。


    (*)秋元麻巳子『二人暮らしのお取り寄せ』(角川書店、2000年)


  • 2001年03月18日記

  • バクーニンの『国家制度とアナーキー』を読了。大分前に、わりと固めの出版社により書物復権というキャンペーンが打たれたが、その一冊として新装復刊された本である。相変わらずわたしの本棚に積読されていたもの。もともとは1973年刊行の『バクーニン全集6巻』より抜粋されたものらしい。

    わが国においてアナキズムは、革命思想としてマルクシズムなどの社会主義思想と十把一からげにされる傾向がある。しかし、全く異なった思想であることを予め断っておきたい。個人の自由に対する真摯な思考とその熱情は、昨今わが国において展開されている「国家のあり方」をめぐる議論に一定の示唆を与えるものである。その証拠に、こうしたアナキズムの思考は、先日この欄で取り上げたリバタリアニズムの議論でも頻繁にあらわれている。

    さて、本書はバクーニンの最後の著作にして未完の著作。また、バクーニンの文体は茫漠として冗長。はじまりと終わりの判別さえも難しい。投げ出したくなる衝動に駆られながらも辛抱強く読みつづけることによってはじめて得るべき物がある。散文調の中に息づく星屑のごとくちりばめられたアナーキズム理念の断片。ときどきはっとさせられる珠玉の言葉に出会うことがある。バクーニンの本質を見通す直観力に驚くとともに、その直観力こそがマルクシズムの理論的欠点を早々に捉え批判し、現在の理論的再評価につながっているとということを納得させられた。


    (*)ミハイル・バクーニン著、左近毅訳『国家制度とアナーキー』(白水社、1999年)。


  • 2001年02月27日記

  • 先日読んだ『自由はどこまで可能か』で、リバタリアン的私的所有論についての詳細な検討を改めてしたくなった。そこで、大分前に一度読んだ同じ著者の『財産権の理論』(*)を読むことにした。

    ロック的私的所有論を、法人制度、著作権制度そして遺産相続制度などに応用を試みた書である。『自由はどこまで可能か』において展開された結論に至るまでの知的葛藤があらわれている。著者の知的格闘の経緯を示しているだけあって、明快さという面に関して残念ながら欠けている。

    憲法学会の主流の学説である「二重の基準論」についての反駁は、かなり説得的であった。法律学者としては、個別の領域における議論に拘泥されがちであるが、「法の観察者」としての法哲学者の議論はときとして素朴ながらも十分に考慮しなければならない見解も多いことを感じさせられた、という最初に読んだ時の感想が蘇ってきた。


    (*)森村進『財産権の理論』(弘文堂、1995年)。


  • 2001年02月22日記

  • 昨日刊行されたばかりの講談社現代新書の新刊『自由はどこまで可能か』(*)を読んだ。このシリーズの中では、久しぶりに読みたいと思える本だった。森村進氏といえば、ロックの私的所有論を拠り所にこれを理論的に発展させた著書『財産権の理論』で有名。ここで著者は、独自のリバタリアニズムを展開している。

    率直な感想をいえば、『財産権の理論』を中心とした議論の簡易版。しかし、理論的難解さからか、思考としての未成熟さからか、いささか難解な『財産権の理論』に比べ、本書は端的に整理されていて面白く読むことができた。

    本書は、リバタリアニズム的な思考の全体像を鳥瞰する格好の入門書であると同時に、数多くの思考実験を試すことができる良書だといえる。


    (*)森村進『自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門』(講談社、2001年)。


  • 2001年02月17日記

  • ちょっとした必要から、『安全学』(*)を読んだ。

    近代化の本質、近代化と「自然」との関わり、そして人間。文明論的に人間社会と「安全」の関わり取り上げ、それが一つの学問領域として認識することが可能か否かを問う知的挑戦の作。最近、わたしの愛読雑誌(定期刊行物という意味で)となっている『現代思想』に連載されていたものを加筆・修正したもの。医療サービス、薬害、航空機事故など具体的な例も丁寧に整理されている。最近の、日航機ニアミス事故や雪印乳製品集団食中毒事件など、いまだにこの本で提起された議論が、わが国においていまだ深化を遂げていないことに愕然とする。

    ここ数年、さまざまな形で危険ないしは危機についての関心が高くなっているが、こうした問題をどのように構造化し、整理していくべきかを考える契機になった。今度、神奈川県で行う消費者リーダー養成講座で「安全」の問題を取り扱うことから、これらの問題の取り上げ方、およびその本質についての整理に、大いに役に立つ資料であった。


    (*)村上陽一郎『安全学』(青土社、1999年)。


  • 2001年02月08日記

  • アンソニー・ギデンズ著・佐和隆光訳『第三の道』(*)を改めて読み返した。サッチャリズム吹き荒れる80年代に衰退を余儀なくされた社会民主主義の知的な回復を試みた一冊。これがブレア政権の理論的バッグボーンとなっていることはあまりにも有名。

    マニフェスト的性格が強く、詳細については、いまだ詰めておかなければならない点も多々あるが(**)、昨年来わが国における問題関心として注目を集めている「平等神話」の崩壊とあわせ考えると、彼が主張する「平等」に対する捉え方は示唆に富む。

    最近、本書を訳した佐和氏が岩波新書で『市場主義の終焉』という本を出している。出版関係者によるとこれがバカ売れしているらしい。しかし、この中身はほとんど本書の引き写しといってもよい。

    わが国における社会哲学の独創的展開ためには、『第三の道』の無批判な導入なのではなく、右傾化著しいわが国の現状への理論的な批判として再構成されるべきであろう。


    (*)アンソニー・ギデンズ著・佐和隆光訳『第三の道』(日本経済新聞社・1999年)

    (**)同著"The Third Way and it's critics"という続編も出ている。いずれ紹介する機会もあろう。


  • 2001年02月02日記

  • 鎌田慧編『大杉榮語録』(*)を読んだ。半月前ほどに出たばかりの本だ。鎌田慧といえば、岩波書店から『大杉榮―自由への逃走―』(**)という評伝を出しており、すでに彼の大杉榮に対する見方はこれで明らかなのだろうが、わたしはこの本をまだ読んでいない。

    わたしは評伝という本の一分野があまり好きではない。というのも、他人のめがねを通して人を見たくないからだ。もし、あなたにとって興味ある人物が、生前何らかのかたちで書物を書いているのならば、まずそれを読むべきだ。それがないなら仕方がない。評伝を頼りにその人となりに近づくべきである。

    この本は、評伝ではない。あくまでも「語録」である。だから、大杉榮の生前書いた言葉がそのまま響いてくる。

    しかし、大杉榮に「語録」というかたちは必要だろうか。

    かつて、塩野七生が『マキャベリ語録』(***)という本を出版したが、これには理由があった。一度でも、マキャベリの『君主論』を読んだことのある人ならば経験したであろう。その冗長な文体、多くのエピソード。事の本質になかなか近づけないのである。だから、塩野女史は、彼のいいたいことを上手にまとめ、多くの読者に『君主論』の本質を伝えたのである。古典的名著は、時としてその内容が一人歩きし、名著を見ずしてそれを知る人が現れる。その原因には、名著そのものが、現代人を近づくことから遠ざけていることがしばしばある。

    話を戻そう。はたして、大杉榮には「語録」は必要か。彼の研ぎ澄まされた感情の響きを受け取るのに誰の解説も要らない。自らの読み方で読むのが、大杉榮の書だと思うのである。教条主義こそ大杉の最も嫌うところである。

    だから、この本ははじめて多すぎに触れる人には、有益だ。しかし、すでに大杉に触れたことのある人には有害だ。退屈だ。つまらない解説に、五〇頁(全体の四分の一)も費やしている。

    『大杉栄評論集』(****)を読まれることをお薦めする。


    (*)鎌田慧編『大杉榮語録』(岩波書店、2001年)1000円

    (**)雑誌『世界』に連載されていた。いずれひまな時に読もうと思っている。甘粕大尉により殺されたとする説に疑義をさしはさんでいるらしい。しかし、わたしは大杉が殺された経緯に関心があるのではなく、彼の「自由」の思想に関心がある。

    (***)たしか、新潮社だったような。文庫とハードカバーが出ている。

    (****)飛鳥井雅道編『大杉栄評論集』(岩波書店、1996年)620円。こちらをお薦めする理由がわかるであろう。半分強の値段で、大杉に近づけるのである。著作権が切れているせいか、青空文庫でも大杉の文章に触れることが出来る。


  • 2001年01月18日記

  • 年末から、正月にかけて民主主義・民主制の本質を知りたくなって、これらに関係する文献をせっせと読んだ。いまもいろいろと読んでいるが、もっとも知的興奮を覚えた一冊は、レーニンの『国家と革命』(*)である。発行年を見ても分かるとおり、古いモノであるが、昨年の七夕に重版が刊行され、わたしの本棚に飾られていた。

    そもそもこの本を購入したのは、マルクス・レーニン主義における国家学説を検討しておきたかったからである。国家を「廃止」すべきものと理解したアナーキストと国家そのものの「消滅」を予言したマルクス。個人の自由をさまざまな形で追求した両者の見解は、近代市民社会における国家の在り方を眺めるときの一つの尺度として有用である。

    さて、民主制との関係である。本書は合意を形成し、一国の意思決定にいたるためのプロセスとして民主制を理解するのではなく、参加としての民主主義の試みを議論の中心にすえている。民主集中制を基盤とする社会主義国家の崩壊を、目のあたりにしても、理念としての「参加」は、現在においても力強い主張として、そして課題として生きつづけるであろう。


    (*)レーニン著、宇高基輔訳『国家と革命』(岩波書店、1957年)


  • 2000年11月12日記

  • たいへんな読書家の知人、K氏からいただいた本、『笑えるコンピュータ』(*)を読了。

    いただいた際、前書きをササッと読んで、思わず大爆笑してしまった。電車の中でなくて本当に良かった。コンピュータ・オタクの著者が、自らの行いを皮肉と自嘲に満ちた口調で数々のエピソードを語る。その小気味いいテンポに思わずのめり込んでしまう愉快な本であった。

    しかし、このアイロニーに満ちた記述を心から楽しめるのは、やはりかなりのマニア度に達していなければならないだろう。そうでなければ「笑えない」。わたし程度の者にとっては、ここまで勢い良く自嘲のエピソードを繰り返されると、笑うどころかいささか消化不良に陥ってしまう。


    (*)デイブ・バリー『笑えるコンピュータ』(草思社、1998年)。


  • 2000年10月26日記

  • 『パソコンプログラミング入門以前』を読了。

    毎日、パソコンを使わない日は無いといっていいぐらい、わたしの日常にコンピュータは入り込んでいる。しかし、これらがどのように動いているのかについては案外知らない。というより、知らなくてもいいのかもしれない。

    プログラムを書き、それに書かれた命令をコンピュータに実行させることで、必要な機能を発揮させ、わたしたちはそれを享受しているのだというくらいは誰でも何となく知っている。だが、そのプログラムというものには何が書いてあるのか、どんな構造を持つものなのか、プログラムを書く人の間で交わされる意味不明な用語は何を意味するものなのか・・・。わたしのような文系人間にとって、これらへの疑問と興味は尽きることがなかった。と同時に身近にその回答を与えてくれる人もいなかった。

    他方、このような知的好奇心を満たすには、一般のプログラム教本の類は、特定の言語に特化した記述のため、全体像や本質を把握するには役不足。何かわたしの興味を満たしてくれる本がないものかと探していた矢先にこの本と出会った。

    期待通り、わたしの疑問と好奇心に明快かつ適切に答えてくれた本であった。そして、日頃から少なからず使用アプリケーション・ソフトに不満を持っている者にとって見ると、プログラム開発は遠い存在なのではなく身近なものであるということ、場合によっては、わたしだって作れるかもしれないという気分にさせてくれる本であった。


    (*)伊藤華子『パソコンプログラミング入門以前』(毎日コミュニケーションズ、2000年)


  • 2000年10月18日記

  • 小椋三嘉著『チョコレートものがたり』(*)をあっとういう間に読了。大分前に何かの書評を見、六本木の青山ブックセンターで購入。読まずにしばらくほうっておいていたが、ふとどこかでカカオの香りを嗅ぎ、無性に読みたくなり、一気に移動中の車内で読んでしまった。

    チョコレート全般に詳しくなれる本である。その文化的で知的な楽しみとしてのチョコレート、はたまたその深く複雑な味わい。本当の意味でチョコレートを楽しむならば、やはり大人になってからだと確信した。ワインやタバコ・シガーのようにそれだけ嗜好性が強いということである。この本によりチョコレートに関する必要な知識は十分に得ることができる。ただ、彼女の文章からは香りたつカカオの自然な香ばしさをイメージするには至らない。この深淵な世界に足を踏み入れようとする人には、ぜひ実際に街へ出掛け、味わうことをお勧めするが、それならば、街へすぐに出掛けたくなるくらいのエレガントで機知に富んだ文章で綴って欲しかった。

    なお、お店のレファレンスは大変便利。日本でもこれだけの本格的なチョコレートを楽しむことができると知ってとても嬉しくなった。


    (*)小椋三嘉著『チョコレートものがたり』(東京創元社、2000年1月)1800円+税


  • 2000年10月17日記

  • 3月の引っ越しの際に、たくさんの漫画を処分したが、わずかにそれを免れたものがある。「お気に入り」として手元に置いておきたいと思ったものたちである。現在、その連載が続いているものもあれば、終ってしまったものもある。いずれも繰り返し何回読んでも面白く楽しめるものばかりである。

    『天才・柳沢教授の生活』(*)。作者の父親がどこかの大学の経済学部教授なのだそうだが、その人をモデルに書かれている。真面目すぎるほど真面目で、人間に対する好奇心を常に持ち続けている教授の姿がとてもいい。現在、16巻まで出版されている。最近では、お孫さんの華子ちゃんや猫のタマとの触れ合いを描いた作品を集めた傑作選が出ている。

    『菜』(**)。「さい」と読む。この名前は主人公の女性の名と、「妻」の音を掛けている。もしかしたら、それは「細君」の「さい」も掛けているかもしれない。数学者だが、非常勤講師や家庭教師をして日々暮らしている耕平とその妻、菜を描いた心あたたまるストーリー。季節感のあふれる設定、鮮やかな色彩。今時絶対いそうにないが、でもいてほしいと誰もが願って止まない二人の物語である。いささか古風だが、わたしが憧れる理想のカップルである。すでに12巻で完結しているが、まだ、書店で容易に手に入る。

    職業柄か、学者が主人公の話が好きである。その適度に浮き世ばなれした感じがなんともいい。


    (*)山下和美著、講談社モーニングKC

    (**)わたせせいぞう著、講談社モーニングKCDXカラー、1993年〜1998年


  • 2000年10月09日記

  • 『臨海副都心物語』(中公新書1541)(*)読了。

    著者は、臨海副都心地区開発計画策定を初期の段階からコミットしてきた人のひとり。お台場・有明地区を含めた総合的都市開発計画が、初期の理念や哲学がさまざまな経済的環境の変化(バブル崩壊)や政治的圧力(一連の「都市博」騒ぎ)などで歪められていく過程をつぶさにふり返ることができる。

    今でこそ、それなりの賑わいを見せるこの地区が、なにゆえにこのような形になったのか(いい意味でも悪い意味でも)、現代における都市計画がさまざまな利権を生み出し、それが政治的に利用されることでどのように歪められていったのか、現代における都市計画がいかなる問題点と難しさを持っているかを一つのプロジェクトの経験を通じて説得的に展開されている。

    お台場に訪れる人、そこに住む人そして勤める人にとって、もう一つのお台場あるいは臨海副都心の見方を提供してくれる本である。

    なお、半年ほど前から、わたしはこの地区に住み始めたが、一住民としてあるいは一市民としてここの都市計画及び開発について、いろいろと考えていることがあるが、それらは追々本ホームページの「お台場日誌」等で明らかにしていくことにしたい。


    (*)平本一雄著『臨海副都心物語――「お台場をめぐる政治経済力学」』(中央公論新社、2000年6月)


  • 2000年9月28日記

  • ここ数カ月気になっていてしようがなかったコトが、先日ようやく解けた。このために、わたしはヒマを見つけては図書館や本屋の北欧史やバイキングの本を漁っていたのである。

    「ブルートゥース」(青い歯)の由来、これである。ご存じの方も多いかと思うが、最近注目の通信技術の名前である。古くバイキングの王からとった名前だという。

    むかし、今のデンマーク、ユトランド半島の大部分を支配する王がいた。勇名をはせたその王の名はハラル。後にデンマークとノルウェーの両国を侵略によるのではなく、平和的に統合し、支配した。王はこの地の言葉で"Blatand"(青い歯)と呼ばれていた。この言葉は二つの部分から成り立っている。"bla"は当時「肌が浅黒い」ことを意味し、"tand"は「偉大なる人(権力者)」を意味していた。この英語訳が「ブルートゥース」である。

    二つの国を支配したハラル・ブルートゥースは、コンピュータと家電の橋渡しをする技術の名前にもってこいだというわけである。

    <参考URL>ブルー・トゥースSIG:http://www.bluetooth.com
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