ガンジーが指摘した7つの社会的大罪

 

1997年の夏、パリ行きの飛行機の中で次のような新聞記事を見つけた。6月にオランダで開催されたOBサミットで、
「大国や多国籍企業、国際的な金融投機グループの横暴を憂うる」報告書が採択され、「世界には、マハトマ・ガンジ
ーが指摘した7つの社会的大罪、すなわち、

            1 原則なき政治

           2 道徳なき商業

           3 労働なき富

           4 人格なき教育

           5 人間性なき科学

           6 良心なき快楽

           7 犠牲なき信仰


が今日でもはびこっている。これらを抑制し、自由と義務を均衡させる手段の第一歩として、国連に対し『人間の責任
に関する世界宣言』の採択を求める」との提案が行われたというのである。


 当時、私は通商産業省から慶應義塾大学に来て間もなかったせいか、1 原則なき政治と、2 人格なき教育にはと
りわけ感じるものがあり、その場でメモ帖に記入して持ち帰ったのであるが、後で調べたところ、次のようなことが分か
った。

 

まず、「OBサミット」は、正式名称をInter Action Council と言い、1987年に設立、毎年、大統領、首相等を退任した
各国の元指導者が集まって、自由な立場から、人類が直面する政治・経済・社会問題の実践的な解決に向けた提言
などを打ち出している。
 この報告が行われた1997年のOBサミットには、日本の宮澤喜一元首相、西ドイツのヘルムート・シュミット元首相、
オーストラリアのマルコム・フレーザー元首相、アメリカのジミー・カーター元大統領、旧ソ連のミハエル・ゴルバチョフ
元大統領、シンガポールのリー・クアンユー元首相、フランスのヴァレリー・ジスカール・デスタン元大統領など27カ国
の大統領・首相経験者が参加した。先進国首脳会議であるサミットは、ロシアを含めて8カ国にすぎないが、ここには、
はるかに多数のな指導者が参加している。

 

この時採択された「人間の責任に関する世界宣言」とは何だったのか。イントロダクションは、次の言葉で始まってい
る。


「人間の責任について語る時がきた−世界経済のグローバリゼーションは多くの問題をグローバル化させて
いる。グローバルな問題は、あらゆる文化と社会から遵守されなければならない理念、価値観、規範を基盤
としたグローバルな解決策を強く求めている。すべての人々の平等かつ不可侵な権利の承認は、自由と正義
と平和の基盤が前提となるが、それはまた、権利と責任とに同等の重要性が与えられ、すべての男女がとも
に平和に暮らし、持てる能力を十分に発揮できるような倫理的基盤を確立することも要求している。
 より良き社会秩序は、国内的にも国際的にも法令・法規や条約だけで達成できるものではなく、グローバ
ルな倫理をこそ必要としている。発展への人類の希求は、いかなる時にも人々と制度に適用すべき、合意さ
れた価値観と基準によってのみ現実のものにできるのだ」。


 宣言の主旨は、冒頭の新聞記事にあるように「大国や多国籍企業、国際的な金融投機グループの横暴」を憂い、
多国籍企業と国際金融グループには企業倫理の確立を、各国政府には有効な対策の実施を促すことにあったと思わ
れる。その後のアジア通貨危機、日本のバブル経済等々を見れば、いかにも時宜にかなった警告であったといえるだ
ろう。

 

上記の「ガンジーが指摘した七つの社会的大罪」は、報告を行ったシュミット元西独首相(議長役)の演説に出てくる
ものであり、その後には、「
グローバリゼーションは、ガンジーやその他の倫理指導者の教えを必要とする新た
な緊急性をもたらした。テレビ画面上の暴力が衛星中継によって地球全体に伝達される。はるか遠隔の金融
市場での投機が一地方の共同体を破壊することもできる。民間の実力者の影響力が政府の権力に近づき、し
かも選挙による政治家と異なり、これら民間人の場合は本人の自覚以外に責任が問われない。人類の責任に
関する宣言が世界で今日ほど必要とされた時はないのである」と続く。

 

さらに次の章には、「人間の行動を導くために複雑な倫理システムは必要ではない。いにしえの規則、
すなわち黄金の規則が真に守られるならば、公正な人間関係は保持することができるのである。
黄金の規則の否定文での表現は、『自分自身が他者からされたくないことを他者に対しても行うな』とい
うことである。肯定文での表現をすると、『他人にしてもらいたいことを他人にせよ』となり、より積極
的で連帯的役割を意味する」。

・ 私たちに生命の権利があるとすれば、私たちには生命を尊重する義務がある。

・ 私たちに自由の権利があるとすれば、私たちには他者の自由を尊重する義務がある。

・ 私たちに安全への権利があるとすれば、私たちには全ての人間が人間的安全を謳歌できる条件を創出する義
    務がある。

   ・ 私たちに自国の政治過程に加わり、指導者を選挙する権利があるとすれば、私たちにはそれに参加し、最良
    の指導者を選ぶ義務がある。

・ 私たちに自分自身と家族のために一定水準の生活を得られるよう公正で好ましい条件の下で働く権利があると
    すれば、私たちには自己能力の最善を尽くす義務がある。


   ・ 私たちに思想、良心、信 仰の自由の権利があるとすれば、私たちには他者の思想や宗教上の原則を尊重す
    る義務がある。


   ・ 私たちに教育を受ける権利があるとすれば、私たちには能力が許す限り学びさらに、可能ならば私たちの知識
    と経験を他者とも分かち合う義務がある。


   ・ 私たちに地球の恵みへの権利があるとすれば、私たちには地球とその天然資源を尊重し、配慮し、復活する
    義務がある。


との、規範的な内容が示されている。

 


  おそらくどの大統領・首相も在任中の評価は可否相半ばしたものと思われるが、さすがに大統領・首相ともなれば
それ相応の立派な哲学や世界観を持った“人物”が多く、自由な立場からの発言には、心を打たれるものがある。


 ところで、この「OBサミット」(
Inter Action Council)は1987年に設立されたのであるが、その提案者は、何を隠そう
が国の当時の総理大臣福田赳夫である。

 福田内閣は1976年12月24日から1978年12月7日まで、わずか2年間の短命内閣であったが、経済・政策通として知
られた福田総理は、金権体質の田中角栄元首相と常に覇を競い合った人であった。もっとも、肝心の経済政策の面
では、赤字国債発行に道を開くなど、感心できないものがあったが・・・。

 そして、この内閣で対外政策を担当したのは、鳩山威一郎外務大臣である。おそらく、この二人働きかけによって、
各国首脳の合意が成立したのであろう。主義・主張の当否はともかく、わが国にも、このようなスケールの大きい発想
を持った政治家がいたことは、嬉しいことである。

                        ・・・・ 以下、余談・・・

それから26年、現在、小泉純一郎首相と福田赳夫氏の息子である福田康夫内閣官房長官が国政をリードしている
のだが、どうだろう。当時と比べて、国際政治におけるわが国の地位は、一歩でも二歩でも前進したと言えるだろうか。
イラク問題を見ても北朝鮮の拉致問題を見ても、アメリカへの従属的な姿勢ばかりが目立ち、いまや日本は、アメリカ
の属国としてしか見られていないのではないか。
小泉首相は、どのような哲学を持ち、どのような世界観に基づいて国政を運用しているのだろう。政治の原則を憲法、
哲学を世界平和、目標を経済社会の発展と人々の幸福とするなら、小泉首相の「原則なき政治」はひどすぎるのでは
ないか。
 民主党の鳩山由紀夫氏もしかりである。一体彼は、父の威一郎氏から何を学んだのだろう。