所長の挨拶

 1886年(明治19年)、福沢諭吉は三田演説館において、「我が慶應義塾の教育法」はその「設立の時より実学を勉め、西洋文明の学問を主として、その真理原則を重んじ」てきたが、それは「事の大小遠近の別なく、一切万事、我が学問の領分中に包羅して、学事と俗事と連絡を容易にするの意なり」と、また「学問を神聖に取扱わずして、通俗の便宜に利用するの義なり」と論じました(「慶應義塾学生諸氏に告ぐ」『時事新報』)。

 慶應義塾大学産業研究所(Keio Economic Observatory: KEO)は、義塾創立100周年記念事業の一環として、1959年(昭和34年)9月に設立された長い歴史を持つ大学附属研究所です。その英語名にある“Observatory”(観測所)という表記は、社会科学分野における研究所として特異に感じられるかもしれません。その意図するところは、KEOに所属する研究者が常に現実社会や産業の問題(「俗事」や「通俗」)を見つめ、それを科学的な知見(「学事」や「学問」)から実証的に分析・解明するという、福沢諭吉による「実学の精神」の探求にあります。

 KEOの創設者である藤林敬三は、高度経済成長期の労使紛争解決へと経験科学の方法論にもとづき取り組んだ研究者でした。その後、KEOの研究員による対象分野は経済・法律・行動科学のさまざまな社会問題に拡大され、その過程において、寺尾琢磨、峯村光郎、辻村江太郎、正田彬、小尾恵一郎、尾崎巌など、傑出した数多くの研究者を生み出してきました。取り組む問題は時代によって変化しながらも、社会を実証科学として分析するその独特の研究スタイルは現在も受け継がれております。

 現在、KEOは専任所員4名とともに、慶應義塾の学部・研究科教員である兼担所員29名、慶應義塾名誉教授などの兼任所員22名、客員研究員10名、国内外の外部研究機関などから参加する共同研究員52名、大学院生である研修生5名を擁しております。少子高齢化や気候変動への適応など、難しい舵取りが求められる現在の日本社会において、KEOはその問題の解明と問題認識の深化に向け、社会科学の実証研究に取り組んで参ります。

産業研究所
所長 野村 浩二
2024年4月1日